今日こんな映画観た

日本未公開・未ソフト化の超マイナー映画から、誰もが知っている超大作まで、映画についての鑑賞メモ。
基本的にストーリーは結末まで記しているため、ご注意ください。

フランス

エンツォ・バルボーニ(1973)『くたばれカポネ』

Anche gli angeli mangiano fagioli
製作国: イタリア/フランス/スペイン
監督:エンツォ・バルボーニ(E・B・クラッチャー)
出演:ジュリアーノ・ジェンマ/バッド・スペンサー/ロバート・ミドルトン/ビル・ヴァンダース

【あらすじ】

1920年代のニューヨーク、覆面レスラーのチャーリー(バッド・スペンサー)はマフィアのボス、アンジェロ(ロバート・ミドルトン)から試合での八百長を命じられる。しかし、試合中、頭に血が上ったチャーリーは対戦相手を倒してしまう。ソニー(ジュリアーノ・ジェンマ)の助けもあり、チャーリーは試合会場から脱出する。

一方ソニーはチャーリーの度胸と腕っ節を見込み、相棒になろうとまとわりつく。チャーリーの顔が割れていないことをいいことに、アンジェロの部下になることに成功する2人だったが、バーの用心棒をやれば上院議員をノシてしまい、みかじめ料の取り立てに行けば生来の人の良さが災いして、逆に貧しいイタリア人一家に金を恵んでやる始末。ボスへの上納金に困った2人は、敵対するコロシモ・ファミリーのギャングから金を巻き上げてしまう。

彼らがコロシモ・ファミリーにちょっかいを出したことにより、アンジェロのファミリーとコロシモ・ファミリーは戦争状態に入ってしまう。ソニーは金を巻き上げた相手のギャングの暗殺を、チャーリーは上院議員を暗殺し、コロシモ・ファミリーの仕業に見せかける仕事をボスから言い渡される。しかし、根っからの悪人ではない2人が悩んでいるうちに、何者かによってギャングは殺され、上院議員も死んでしまう。

そこに凄腕の刑事マッキントッシュ(ビル・ヴァンダース)が登場し、2人は捕まってしまうが、潜入捜査官だと嘘をつき、2人は釈放される。アンジェロのところに戻った2人だったが、イカサマがばれ、ほうほうのところで逃げだすが、助けてやったイタリア人家族の元を訪れたチャーリーがアンジェロに捕まってしまう。

埠頭でリンチにかけられそうになるチャーリーだったが、間一髪のところでソニーが助けに入る。あとはいつもの殴り合いからの目出度しめでたし。

【感想】

原題の「Anche gli angeli mangiano fagioli」は、日本語にすると「天使たちですら豆を食べる」となります。直接的には映画序盤に登場する救世軍の女性のセリフなのですが、本作のマフィアのボスも天使を意味するアンジェロという名前です。一方で、マカロニウエスタン・ファンならばジェンマが出演している本作でエンジェルと言われて真っ先に思い出すのは彼が『夕陽の用心棒』(1965)で演じたエンジェル・フェイスでしょう。そのエンジェルですら豆を食べる、となると、本作はジェンマをスペンサーと組ませて作った、ヒル&スペンサー映画みたいな映画だよ、というバルボーニからのメッセージを読み取るのは考えすぎでしょうか。

本作は基本的には、バルボーニ監督がいわば生みの親であり、その後も何作品かに携わっているヒル&スペンサー映画の派生というか、亜流として考えると分かりやすい作品です。一方で、ヒル&スペンサー映画では基本的には人は死なないのに対し、本作は20年代のニューヨークという舞台設定のせいか、前年に公開された『ゴッドファーザー』(1972)から影響を受けたと思われる暗殺シーンも一応は存在しており、ほんの少しカラーが異なる印象も受けます。本当にほんの少しですが……

映画序盤、ジェンマがカラテ道場のようなところで掃除夫をしているシーンがあるのですが、この時代のイタリア映画のこういうシーンって、なんでこう日本と中国が清々しいまでにごっちゃになっているんでしょうね…… 面白いけど。

ジュゼッペ・トルナトーレ(1989)『ニュー・シネマ・パラダイス』

Nuovo Cinema Paradiso
製作国:イタリア/フランス
上映時間:124分
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
出演:フィリップ・ノワレ/サルヴァトーレ・カシオ/アントネラ・アッティーリ/ジャック・ペラン

今日は13日の金曜日ということで、『13日の金曜日』(1980)でもご紹介しようかとも思ったのですが、なぜかまったく毛色の違うこの映画を。本作は地震もシチリア出身のジュゼッペ・トルナトーレ監督の手になる2本めの劇場映画で、日本では本作が初めて劇場公開された作品のようです。映写技師のアルフレードを演じたのはフランス出身のフィリップ・ノワレ。ルイ・マルの『地下鉄のザジ』(1960)なんかにも出ているベテラン俳優ですが、やはり日本では本作の役どころが一番有名ですかね。

 シチリアの小さな村にある映画館パラダイス座。そこで青春時代を過ごした映画監督サルヴァトーレが、当時、慕っていた映写技師アルフレードの訃報を聞き、故郷に帰ってくる。そして、少年時代、青年時代の思い出に浸っていたサルヴァトーレが受け取ったアルフレードの形見には、映画への愛とアルフレードの想いがぎっしり詰まっていた……。弱冠29歳のトルナトーレ監督が、映画を愛する全ての人に贈る感動編。劇場とフィルムにまつわるエピソードはどれも楽しく、その中で展開される悲喜こもごもの人生模様。エンニオ・モリコーネの切なくも美しいメロディに包まれて迎える、映画の持つ“力”が具現化されたクライマックスは、涙なくして観られまい。かなり印象を異にする3時間完全オリジナル版もあるが、はっきりいってこちらだけで十二分である。

世には「映画好きなら絶対に見ているだろう」という作品群があると仮定すると、おそらく本作は間違いなくその中に入ってくるであろう作品です。が、個人的な話をすると、そういう映画の中にもたまに未見の作品があり(ヘンな映画はいっぱい見てるのに)、映画好きの人と話をしていると驚かれることがあります。本作もそんな1本でした。なんか、あまりに有名な作品で、ぼく以外の人がいっぱい見てる作品って、今さら見てもなぁ、という感じで後回しになってしまうんですよね…… よく考えると、他のだれが見ていても、ぼくが見てないのでは、ぼくにとっては無意味なのですが。

本作は映画の力の物語であり、映画の進歩の物語であり、シチリアの地方の村の成長(ある面では衰退)の物語であり、主人公の少年の成長の物語であり、青年と壮年男性の友情の物語でもあります。こういった要素が非常に気持ち良く相互に絡み合っており、また、それにエンニオ・モリコーネと息子であるアンドレア・モリコーネのスコアがうまく噛み合って、非常に快い映画体験をさせてくれます。監督であるトルナトーレが故郷に向ける視線も基本的には非常に優しい。

過去の古き良き故郷の情景と、サルヴァトーレ(このタイミングで演じるのはマルコ・レオナルディ)が兵役から戻ってきたときの埃っぽい、薄汚れた街の風景、そして壮年となった彼(このタイミングではジャック・ペラン)が見る現代的な街の風景が、おそらくロケとセットをうまく使用した撮影で非常に説得力を持って描かれているのが印象に残りました。

ナンニ・モレッティ(2011)『ローマ法王の休日』

Habemus Papam
製作国:イタリア
上映時間:105分
監督:ナンニ・モレッティ
出演:ミシェル・ピッコリ/イエルジー・スチュエル/レナート・スカルパ/ナンニ・モレッティ

代表作としては現時点ではカンヌ映画祭パルムドールを受賞した『息子の部屋』(2001)あたりが挙げられるのでしょうか。現代イタリアを代表する映画監督の一人として目されるナンニ・モレッティ監督が、カトリック法皇選出選挙であるコンクラーベをテーマに、メガホンを取った作品。

 「親愛なる日記」「息子の部屋」のナンニ・モレッティ監督がカトリックの総本山“ヴァチカン”を舞台に、人間味溢れる聖職者たちを登場させて描くヒューマン・コメディ。意図せずして新法王に選ばれ、プレッシャーのあまり逃亡を図ってしまった真面目で気弱な主人公が、ローマの街で束の間の人間らしい時間を過ごすさまをシニカルな視点を織り交ぜつつユーモラスに綴る。主演は「昼顔」「美しき諍い女」の名優ミシェル・ピッコリ。
 ある日、ローマ法王が逝去した。システィーナ礼拝堂には各国の枢機卿が集結し、次期法王を決める選挙“コンクラーヴェ”が開催されることに。投票は新法王が決まるまで何度でも繰り返される。誰もが法王という重責に尻込みし、本命視されていた枢機卿たちも規定の票数を獲得するには至らず、時間ばかりが過ぎていく。そんな中、天の配剤か運命の悪戯か、まったく予想されていなかった無名の枢機卿メルヴィルが不意に新法王に決定してしまう。その結果に誰よりも驚いたのはメルヴィル自身だった。そしてパニックに陥った彼は、新法王のスピーチを待ちわびる大群衆の前に現われることが出来なくなってしまう。困り果てた報道官たちは、素性を知らないセラピストに診察してもらうため、極秘裏に法王をヴァチカンの外に連れ出すことに。ところがメルヴィルは、彼らの隙を突いてローマの街へと逃げ出してしまうのだった。

マカロニウエスタンなどを見ていてさえ、バチカンをその懐に抱え込んでいるイタリア人ならではの、カトリックに対する微妙で複雑な距離感を感じることがあるのですが、本作のストーリーからも、まさにそんな感じを受けます。明らかに『ローマの休日』(1953)を意識した邦題からも見て取れるように、(少なくとも)日本では本作をちょっと笑えて暖かな気持ちが残るコメディ、みたいな売り方をしていた記憶がありますが、なかなかどうして、そう一筋縄ではいかない展開の映画でした。ハリウッドではこういう映画は取らないだろうな、というか、良くも悪くもイタリア人らしいな、というか。

逃げ出してしまった法王(ミシェル・ピッコリ)が紛れ込んだのはチェーホフ劇を上演する一座の中で、なにやらチェーホフの戯曲のストーリーも映画のストーリーに暗示的に影響を示しているようにも思えたのですが、残念ながらぼくはチェーホフは未読のため、そのあたりの仄めかしを理解できていない可能性があります。読まなきゃ。

精神科医(ナンニ・モレッティ)の発案で枢機卿たちが始めるバレーボール大会のエピソードや、スイスの衛兵が法王の影武者になる展開など、そこここでユーモラスなシーンもあるのですが、クライマックスも含め、ストーリー的には投げっぱなしで不安定な状態に観客を置き去りにしてしまう、という感じの映画です。そのあたりに、現在のイタリア人のカトリックに対する距離感を見て撮るのは穿ち過ぎでしょうか。

原題の「Habemus Papam」は「私たちは法王を持っている」、ようするに「私たちには法王がいる」くらいの意味合いです。

クリスチャン=ジャック(1971)『華麗なる対決』

Les pétroleuses
製作国:フランス/イタリア/スペイン
上映時間:95分
監督:クリスチャン=ジャック
出演:ブリジット・バルドー/クラウディア・カルディナーレ/マイケル・J・ポラード

ブリジット・バルドーとクラウディア・カルディナーレの共演が見どころのユーロ・ウエスタン。一応イタリアの資本も入っているので広い意味ではマカロニウエスタンと言えるのですが、これをマカロニウエスタンに含めるかどうかは難しいところです。監督のクリスチャン=ジャックはかなり多作の映画監督であり、本作以外にも多くの作品が日本で紹介されています。

 五人姉妹の列車強盗団が、とある牧場の契約書を手に入れた。一方、四人の弟達を持つ女が、その牧場のそばにある油田の地図を手に入れる。彼らは牧場をめぐって、激しく争うが……。19世紀末のニューメキシコを舞台に展開する、“BB”と“CC”の顔合わせも楽しい、軽快なヨーロッパ製ウェスタン・コメディ。

石油が出てくるマカロニウエスタンを含めたユーロウエスタンは意外と少なく、本作以外にぱっと思いつくのはクライマックスで石油が噴き出した『I bandoleros della dodicesima ora』(1972)くらい。まぁ、他にもあるとは思うんですが。

ほとんどのユーロウエスタンでは、当然ながらイギリス映画では英語、フランス映画ではフランス語、イタリア映画ではイタリア語、と登場人物は当然のように自国の言語でしゃべっているのですが、どうしてアメリカにいるのにその言語を話しているのか、という説明は当然のようにありません(まぁ、イギリスはいいんですが)。が、本作では舞台となるブージヴァルの町がフランスからの移民によって開拓された、という説明があり、フランス語は実際にそこで話されている言語という設定なのが面白い。マイケル・J・ポラード演じるモーガン保安官は当初フランス語が話せず、マリア(クラウディア・カルディナーレ)からもそれをからかわれるのですが、その後がんばって勉強して、最後のほうにはかなり流暢なフランス語をしゃべれるようになったりしています。

牧場を巡る争いを背景に、バルドーとカルディナーレの演技合戦を楽しむのがメインの割と気軽な映画です。バルドーは『ビバ!マリア』(1965)ではジャンヌ・モローと共演して西部劇に出演しており、その際は6歳年長のモローと比べて小娘感のある役どころでしたが、今回は4歳年下のカルディナーレとの共演ということもあり、堂々とした西部の女ぶりを見せています。『ビバ!マリア』からのバルドーのキャラクターの変遷を比べてみるのも面白いです。

それにしても、『ビバ!マリア』といい、本作といい、また、言いくわえるならば『エロチカ・ウェスタン/色情狂の館』(1975)もそうなんですが、フランス産の西部劇って、制作数に比して、何だか女性が主役のものが多い気がします。『レッド・サン』(1971)みたいな作品もあるんですけれど。当時のフランスの制作者は、どちらかというと、西部劇に関してはパロディ的な捉え方をしていたんですかね。

ルネ・クレマン(1960)『太陽がいっぱい』

Plein soleil
製作国:フランス/イタリア
上映時間:118分
監督:ルネ・クレマン
出演:アラン・ドロン/マリー・ラフォレ/モーリス・ロネ/ビル・カーンズ

『禁じられた遊び』(1952)と並ぶ、ルネ・クレマン監督の代表作の1本。主演はまだ20代半ばのころのアラン・ドロンです。

 貧しい青年トムが、富豪の友人フィリップを殺害した。そして、彼に成り済まして財産を奪おうとする。身分証の偽造や筆跡の練習、トムの緻密な計画は完璧に見えたが……。冷徹な青年にA・ドロンが扮する、サスペンスに満ちたミステリ劇。原作はP・ハイスミス。

アメリカの小説家パトリシア・ハイスミスの小説を基に、フランス人であるポール・ジェゴフとルネ・クレマンが脚色した作品。本作におけるトム(アラン・ドロン)とフィリップ(モーリス・ロネ)が醸し出すホモシェクシュアルな雰囲気に関する言及は、淀川長治氏を始め散々言われてきたことです。

一方で、『明日に向って撃て!』(1969)に代表されるホモソーシャルな構図としての男2人と女1人という関係性が、本作では歪な形で展開されている、と見ることもできます。『明日に向って撃て!』や、更にはアラン・ドロンも出演している『冒険者たち』(1967)では男と男の友情が描かれ、介在物として存在する女の存在意義は、男と男の関係性が確立すると不要なものとなります。どちらの作品でも物語終盤では女性の存在がないことが象徴的です。つまり、男2人の双方にとって、介在物である女は個別性のないもの、「その人」である必要のない記号として扱われています。

それに対して本作では、トムの側はフィリップに愛情に近い親近感を抱き、(映画内での行動とは裏腹に)マージュ(マリー・ラフォレ)に関してはそこまでの関心を抱いていません。一方のフィリップはトムに対する関心よりもマージュに対する愛情が大きいのです。そのため、トムの側から見るとマージュは代替可能な存在であるものの、フィリップの側から見るとその代替可能性が成立しておらず、非常に安定感のない歪な関係性が成立しています。

今回、久しぶりに本作を見返すにあたり、ホモソーシャルという概念を通して鑑賞してみて、上記の関係性に気づいたことを記しておきます。

映画自体はアラン・ドロンは美しいし、サスペンス描写はしっかりと計算されているし、クライマックスの破綻に向けての盛り上がりも素晴らしく、やはり完成された映画だ、という印象を(以前見たときと同様に)受けました。

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